時間はどんな人にも平等であり、限られたもの。
根暗をポジティブに捉えている根暗
私は病人に囲まれて育った故、
『時間の限り』ということが常に身体に沁みついている。
小学生くらいから
そんな自分の思考は老人っぽいな、と感じ、
友達みたいにはしゃげない自分もいて
どこか遠くからみんなを眺めているようなところがあった。
そんなときは、
誰ともあまり話したくなかったから
机に伏せることが多かった。
まわりは体調が悪いのだと気を遣ってくれ、そっとしてくれていた。
伏せている間、
暇だから
みんなの声や物音、足音、間のような音をただ、ただ、聴き流していた。
そんなことを高校生までやっていたから、
私は、音にならない”音”や、言葉にならない”気持ち”のような
表面的には見えないけども
どこか不在を感じているような、
内には秘めていても表には出していない、
本人も無自覚かもしれないような人の中に大きく占めている感覚を
いつの間にか、感じるようになっていた。
(ええ。根暗です 根暗をポジティブに捉えている根暗w)
あ、この子、学校に来なくなるな、とか
誰と誰が(内緒で)付き合っている、とか
本当に言いたいことはそれではない、とか
心が泣いていることや喜んでいることも、感じ取ってしまう。
はたまた、
元パートナーの浮気は足音ですぐに分かった、とか
感じなくていいものまでw
でも、これって 誰でも集中したらできると思う。
例えば、子どもの様子を見ただけ、声を聞いただけで
なんかあったな、、、と感じられたりする。
その延長みたいなもので。
分かるから何だってこともないし、
役に立たないこともない。そんなもの。
その視点は
お婆ちゃんみたいな俯瞰したものだから、
無意識にこればかりやっていたら老けていくんだよね。見た目も中身も。
例えば、浮気をされても
なぜ、浮気をしたのか?
その気持ちが分かって、共感できたりするものだから、、、厄介。
えーん(T_T)って泣けなかったりして
自分の気持ちを置いてしまうから本末転倒。
自分の本当の幸せを探す旅
今、パートナーがいて良かった!と思うのは
そういった私も含めて
まるッと大切にしてくれること。
彼も、パートナーさんを亡くしたことで
時間が限られているものだと身に沁みついているからだと思う。
で、時々思うの。
なぜ、この人がパートナーなんだろう?って。
もちろん愛してるよ。
でも、接点もほぼなく、あのタイミングで、
住んでいる距離も離れた彼となぜ、惹かれ合うの?と考えると
彼といることで
【自分にとって必要なことが沢山あるから】
という宇宙の流れだと受け入れられる。
出逢っているって
だから本当に不思議。
そこには自分の幸せのため、ということが必ずある。
どんなにつらいことが起きていたとしても
目に見えているものは一部であって、
そう感じた気持ちを通して何を自分に気づかせようとしているのか?
その出来事の本当の意味は何だろう?
という本質から目が離せない。
そこには自分にとっての幸せへの答えに近づくヒントがあるから。
それらを求めるだけでは弱くて
必要とすると
自分を磨いて生き、自分を喜ばせ、
それが誰かの役にも立つことになったりする。
パートナーシップって
自分だけでは意識できない
自分の本当の幸せを探す旅のように思う。
面白いし、興味深い。
だから、起きたことで感情が揺れて
揺れたまま、感情に振り回されているのは
なんだか勿体ない気がする。
もっともっと奥を見よう、感じよう。
親子関係でも、人間関係でも同じく。
身近な人は特にキョーレツ!!!
キョーレツということは、
逆から言えば、それだけ自分に必要だということ。
りんごろ理(ことわり)語り。
お婆ちゃま視点とも言ふ。
さてさて
私の講座やWSでは
このようなお婆ちゃまりんごろw と対話をします。
本音の対話も深めますよーーー
本質を必要とする方向けです。