次男坊の学級通信で
先生が、次男坊の書いた班ノートをクラスで紹介していて
書いてある内容に、わたしが驚くという!!!
大きくなったもんだー
悪ガキでしかなかったのにw
「優しさとは」
人にはそれぞれ言葉に定義があって
感じ方も違って、
ある人にとって優しいと感じることが、
他人からはお節介だったりします。
自分で自分を賞賛するわけじゃないですが、
1,2年の時のうつむき加減頃よりは
クラスのために働き、
クラスメートのために動くことができたのかなと感じています。
でも、自分ではあまりなんでやっているのか分からなくなる時があって、
「ありがとう」は聞けても、自分にメリットがあるのかも分からなくて。
それでも動きたいと思うのは、
クラスの雰囲気がすごく心地良くて、
あの子がしてくれるから自分もやらなければ、という自発的な、
自然に湧いてくるんですよね。
前までのクラスが決して悪かった訳ではないけれど、
自分に何もメリットがなかったとしても、
やりたくなってしまうっていうクラスの雰囲気が、
一人の人間、まあ自分を動かしているんです。
当事者として何かやっている時に実感できるってことは
本当にこのクラスは良いクラスなんだと感じます。
自分の中で他人のために動く時に決めていることがあって、
見返りを求める優しさほど意味のないものはないと思っているんです。
あの時これやったから、お前はおれにこれをやれっていう考え方になると
いよいよクズを極めそうだなって思っていて。
でも、時々「これをやったら、この人にこう思われるかも」とか、
「この子にこう思われたいから優しくしよう」とか、
そっちに思想が傾く時があって、
やった後のことは何も考えていない時と同じだとしても、
気持ちの持ちようなんでしょうね。
どこまでが見返りなのかって分からなくなる時の気持ちに
いちばん自己嫌悪感を抱いています。
あと、これは当事者なんで分からないんですけど、
「お前、それちょっとやりすぎじゃね?」
って思われてないか気にしてて(自分が)
他人の目をやたら気にする性格ということに、最近気づいたみたいで、
クラスの人が自分をどう見ているかがすごく気になったりしています。
「マジョリティーと賛否両論」
よく使われる言葉、マジョリティーとマイノリティーについてのことです。
自分たちは14または15歳で、
まだ義務教育という親切でもどかしい檻の中で暮らしています。
クラスで見ても、学年、学校で見ても
必然的に集団になる訳です。
最近、クラス、学年を見て思うのは「先生・大人」という人間に対して
「キライ・ウザイ・上から目線」などと言った固定概念で、
思想を回してるやつが多すぎるんですよね。
どんなに嫌いな人間でも死ぬほど良いところはあって、
でも、キライというフィルターがかかってしまっているから、
見向きもしないで、聞きもしない。
あなたが嫌っている人間よりよっぽどあなたのほうが・・・
なんて感じてしまいます。
自分にも苦手な先生はいますが、ちゃんと耳を傾けると、
その先生が言っていることはあながち間違ってなくて、
よっぽど自分の方が曲がっていることがたくさんあります。
このようにキライだから聞かないという思想には、
一緒の集団にいるからこそなって欲しくないのです。
集団になる上で出てくるのが「マジョリティー」と「マイノリティー」です。
「多数派」と「少数派」ですね。
うちの学年の子もたくさんの人が
「マジョリティーこそが正しい」と思っているみたいですが、
それは間違いです。
少数派にも正当な意見がある訳ですから。
なのに、「おれたちは多いから勝った」「私たちは少ないから負けた」と
何事も勝敗に持っていこうとします。
こういう話をした経緯は、僕たちは最後の体育大会を控えていて、
何かを議論した時にマジョリティーとマイノリティーになったとしても、
仲たがいはしたくないんです。
せっかくできた良いクラスで、
一人ひとりの癖もつかんできているというのにもったいないなと思います。
それが仮に
サイレントマジョリティーとノイジーマイノリティになったとしてもです。
ぶつかることもあるかもしれないですが、
きっとこのクラスなら良い結果を残せます。
必勝!○組!
最後におすすめのRADWIMPSの曲の歌詞から。
いろいろ考えさせられる曲です。
明日に希望を持った者だけに絶望があるんだ
何かを信じた者だけに裏切りはあるんだ
えーーーーーっと
わたしが考えさせられた時間になりました。by母