彼と出会って話した時、
亡くされたパートナーのことで深く後悔をしていて
この先も後悔を持ち続けるんだな・・・
いや、まだ後悔を握りしめていたいんだな・・・
と強く思ったことを覚えている。
明るく振る舞っていたけれど。
私も母を突然亡くし、
後悔で過ごした時間があったから
気持ちは分かるし、
共感することも、そこに寄り添うこともできる・・・
のだけど
【本当にそれでいいのだろうか?】
という疑問は残った。
何故なら
私は母を亡くした当時、
ものすごい後悔をしたし、
孤独感から抜け出せなくてしんどかったけれど
共感や寄り添いが欲しかったのではなかったから。
後悔をしたいわけでも
自分を責め続けたいわけでも
孤独感を感じたいわけでもなかったけれど
そう在るしかできなかった。
悲しみを悲しみきりたかった。
今、時を経たから分かる。
私は本当は
どんな時もどんなことがあっても
自分を生きているということを
共に感じてくれる人に側にいてほしかった。
私にとっての共に感じてくれる人とは母だったということで
だから亡くして孤独に落ちたんだとも知った。
でもね、
今ならもっと適切に【孤独感】について説明できる。
私にとって側にいて欲しい人が母であったということは
同時に、パートナーではないということを表している。
それを無意識に知ってしまい、
何処で私達夫婦は道が分かれてしまったのだろう?と
修復をしたかったんだけども
亡くした分の穴が大きすぎて、私はその気力を失っていた。
当時は、誰の言葉も癒しにはならず
ただただ時間が過ぎていくのを待つような
白黒の世界の中に生きているようだった。
それを変えてくれた存在が娘だった。
娘は当時3歳。
天真爛漫で、いつも私に笑いかけてくれ、甘えてくれていた。
そんなある時、
こんな天真爛漫な娘が
今の私のように
自分をちっとも生きていない世界で時間を過ごしていたなら
私はどう思うだろう?とふと思った。
愛おしく思う気持ちが込み上げてきて
涙が溢れた。。。
決してそんな時間は過ごしてほしくない、
特に!私のことでそんな風に感じるなんて絶対に嫌だと思った。
その時 私は知った。
愛とはこういうものだと。
私とパートナーは
夫婦で力を合わせてはいたけれど
互いの悲しみも喜びも
さほど知らなかったし、
知ろうとすればするほどに
一定の距離を保たれて
私はいつしか諦めたんだ・・・とも知った。
そこからだよね、
本気で当時のパートナーにエネルギーを注いだのは。
結果的には
ふたりでこれからの未来を育む、
ということにはならなかったけれど
ふたりの方向性の違いを、
互いが深く理解できるまで腑に落とせたから
今でも 子ども達の親として、
良好な関係を続けられているし、
互いの幸せを望んでも、祈ってもいる。
結局、パートナーシップとは
ふたりで未来を育むことになったとしても
別れることになったとしても
同じところをふたりで感じ、見続けるから
「ふたりの答え」を出せるものであり、
そこにはものすごいエネルギーを要するから
面倒だったり、
見たくなくて逃げたりして、
人は「恋愛」、もしくは「夫婦関係」で悩むのだ。
関係性を良好にするいちばんの近道は
側にある「人間関係」に
目一杯エネルギーも時間もかける ということしかない。
育むとは、同じ時間を共有すること。
そこだけは
これまでも 今も これからも
効率化も省略もできない。
赤ちゃんが突然立って、
ひとりでおむつを着けるなんてできないのと同じ。
で!
何故 私が孤独感に落ちたのか?というと
私は生まれきてから
「人間関係」を育む ということから離れたことがなかったんだよね。
結婚生活で初めてそれを味わった。
近くもならない、遠くもならない距離の中に居続けること、
それが私には孤独でしかなかった。
同じ時間を共有しようとしないことも
家族としては有り得なくて。(私にとってはね)
もちろん、母を突然亡くしたショックも
孤独感を感じるひとつだったのだけど
母との関係性を失うということは
「人間関係」を育むということの象徴を失くすことのように思えたから
孤独に落ちたんだと思う。
この出来事は
私に強いメッセージ↓を遺してくれたギフトだと、後々気づくのだけど。
終わりは始まり。
死は再生。
何事も留まり続けることはない。
自分が留めようとしない限りは。
母との今生での関係は終わってしまったけれど
私はその後、
子ども達とのあまりにも深い関係性に もみくちゃになるわけであるw
当時のパートナーとも
自分を生きるということについて、真摯に対話する時間は訪れた。
だから、円満に別れることもできたと思う。
彼の後悔の深さや
後悔を握りしめていたい(無意識だろうけれど)ということは
「彼への何のメッセージなのだろう?」
と
私は思った。
その後、彼から送られてくるメールが
正直で誠実であることから
(その当時はお付き合いはしていないから、愛のメッセージなどはない)
人として
「関係性」を育みたい
ということは なんとなく分かっていた。
その真摯な姿は私にとって
以前の娘の天真爛漫さ、
いつも私に笑いかけてくれ、甘えてくれていた時の姿と重なったんだよね。
そして、本当は後悔ではなく
自分を生きたい!というエネルギーを彼から感じずにはいられなくなって
愛おしく思う気持ちが込み上げてきて
会って話したくなったんだよね。
愛とはこういうものだ、と書いたけれど
愛ってさ、
相手が喜んでいたら
なぜだか自然に
自分のことのように嬉しくなっていくし、
悲しんでいたら
もう自分も、悲しみで張り裂けそうになるし、
本人が文句を言わなくても
「そんなこと言うな」って
何故だか本人よりも自分がいちばん怒っていたりするし、
ただただ 楽しそうに笑っていたら
めちゃくちゃ自分も笑顔になっていたりする。
本能的にそうなる。
分かりやすく言うと
子どもが誰かにいじめられて泣いていたら
「おんどりゃー!」って潰しにかかる 言いたくなるのと同じ。
愛って
羨むとか、妬むとか、憎むとか、比べるとか、争うとか
罪悪感、無力感、後悔や懺悔とか
自分を愛してほしいとか
そんなところをウロウロできないのだと思う。
相手が自分。
だから『宇宙一の味方』。
羨むとか、妬むとか、憎むとか、比べるとか、争うとか
罪悪感、無力感、後悔や懺悔、
自分を愛してほしいとかを
駄目だと言いたいんじゃなく
そのように感じるときは
相手が自分ではなくなっていて
自分ひとりだけになるから辛くて、
だからこそ、それは自分へのサインだと知るといい。
自分が自分をひとりにしている、というサイン。
彼の深い後悔は
彼自身に何を刻んでいるのか、
そこまでして自分を傷めようとするのか、って
どうにもこうにも私は見てられなくなったんだよね。。。
自分だったら苦しすぎると感じて。愛故に。
人を想う時(亡くした人へも同じく)
愛でいたいし、祈りたい。
だから
その時の彼にも同じように思った。
後悔じゃなく、愛を、と。
命をもって生まれきたということは
自分を幸せにするためであって
自分を幸せにするとは、尊さや愛であり、それらは内から溢れ来る。
何かを成し遂げる、とか
誰かに喜んでもらおうとするのは良いことだけども
その理想があるからこそ、人はまたそこを目指して邁進してしまう。
溢れ来るんじゃなく、追いかけてしまう・・・外に外に。
それも悪くはないけれど
追いかける恋愛がうまくいかないのは、
愛ではなく、相手でもなく、
達成感のようなものを追いかけているからだと私は思っている。
それは、いつまでも「ひとり」を自分から握りしめているということ。
既に、存在そのものが尊くて、愛。
ありのままが自然というのは、当たり前なんだよね。
石垣島で撮った、ウエディングフォト。
海の中に入って撮っていただく間、
強い波に揺れそうになるのだけど
互いがそれぞれに踏ん張りながらも
相手を気遣ったり、小さな声をかけ合ったり、
笑い合ったりしながら 楽しんだ。
育むって
ひとつひとつ
どれも省略できない。
だから愛しいって込み上げてくるのよね。
自分にも相手にも。
今更とか思わずに
長く一緒にいるカップルにこそ、ウエディングフォトを体験してもらいたいな。