普段は穏やかだったりするのだけど
ぐわっと 負けず嫌いが発動することがある。
それはどんな時かというと
『スポーツ』
とくに勝敗のあるスポーツは燃えます・笑
テニスをしていた学生時代は、ほんと熱かったと思う。
球を打てない自分に腹が立って、腹が立って、
悔しくて、ももを何度も叩いていたし、
そんな日は家に帰っても素振りや走り込みを続けた。
夢の中でもテニスをしていたし、
男子テニス部に負けるのさえも嫌だった。
それだけの時間をテニスに注いでいたし
練習していた自負もあったからなんだけど。
「ここまでは絶対にやる!」と決めたことに関しては
動物的だなと自分で思うくらい挑むというか、
あきらめないところがわたしにはある。
あきらめかたがわからない、というのが本音かな。
それは良い方向に向けば
継続のチカラとなり、原動力にもマニアックにもなる。
けども
わたしは深い後悔を体験したことがある。
それ以来、負けず嫌いの感情は
人との関係性には持ち込まない。
勝つ と 負ける
は
二極性。
好き と 嫌い のように。
でも、人との関係性においては
二極で表すことは難しい。
「あの人好き」
「あの人嫌い!」
のような好き嫌いの感情がハッキリしていたり、
その感情が激しければ激しいときほど、
自分の未熟性をも表していると思う。
子どものように
「嫌なことがあった。はい、絶交!」と言っているのと同じ。
それでも
対人関係を円滑にする最初はここからでもある。
自分にとって心地よいか、そうではないか、
好き か 嫌い か
求めたい か 必要はない か
などを知ることから
自分を見つめることができる。
そして
自分を見つめ、自分の気持ちを自分で知るから
わいた気持ちを自分に味わいきらせてあげることも、
そこからの気づきを得ることもできる。
それができてはじめて
人の気持ちにも共感できる。
自分で感じたことも
味わいきった感情もなければ 誰かに共感することはできない。
好き や 嫌い の二極性からでは
「やな感じ=嫌い=さよなら」だけで
味わいきるまえに、相手のせいで終わってしまう。
言葉にして伝えることも、感じることも、
そこから気づきを得ることも難しい。
相手のせいにするということは
相手が悪いということを、自ら求めていること。
つまり 相手に求める行為となる。
味わいきっていれば、自分の中で終わっている出来事なので
求めない=相手のせいにはしない。
求めなくなれば、同じ出来事は起こらない。
自分を見つめ、
知ろうとすることは
未熟な二極性から、分かち合いの交わりへと変化する。
わたしの母と姉は姉妹のように仲良く、
何でも話していたかのように 幼い頃のわたしには見えた。
と、同時に
わたしも 姉や母と仲良くしたいと望んでいたし、
姉のように、母に何でも話してもらえるように
しっかりしたいとも思っていた。
その思いは無意識に
姉のようにしっかりと何でも自分でやる!という
負けず嫌いの発動にもなっていた。
人間はそれぞれに違って当たり前で
違うからこそ 奥深くて、知らない自分と出逢えるのだけれど
わたしは求めていたのよね。
母に、しっかりとしたわたしを認めてほしい、と。
認めてほしいと求めてばかりのときは
認めてくれるかどうかで判断し、
そこが大事なので
わたしは
何年もの間
母の素の姿を見たり、感じたりすることを置き去りにしていたのだと思う。
だから
母を亡くしたとき
「もっと話したかった」
「もっとチカラを抜いて、娘でいたかった」
「昔みたいに甘えたかった」とホロホロと出てきたし、
ともに感じ合ったり、分かち合ったりしたかったことにも
後で気づいた。
でも、もう遅かった。
これまでの人生の中での
最大の後悔でもあり
母だから気づかせてくれたのだとも思う。
それ以来わたしは
負けず嫌いの感情を
人との関係性の間には持ち込まないし、
そのフィールドにはあがらない。
本来の素のままの自分でいるのが恐いときに
そうするのだろうと気づいたから。
そして
本来のその人の姿を感じることを
2度と置き去りにしたくもないから。
もう2度とこない時間かもしれないから。
それでも負けず嫌いが発動したときは?
自分のエネルギーが下がってしまっていることを自覚して
ニュートラルな気持ちに戻れる行動に変えています。負けず嫌いってことは、既に自分を下げてるの(負けてるの)(^_-)-☆
そこに正直になって、満たしてあげる。
わたしはともに分かち合いたいから。