まず自分を尊ぶ
そもそも私は「命は尊い」と思って生きている。
それぞれの命は尊く、オリジナルなのだから、他人と同じ思考で生きなくていいし、自分が自分を理解していれば、他人を納得させる必要もないと思ってきた。
その自尊心が私の強さだと思う。
小学生の頃、仲間外れになったことがあったが、私はそのことすら気づかなかった。隣の席の男の子に「仲間外れになってるの、知ってる?」と言われて初めて知ったが、その男の子に「何で?何で?」と逆に聞き返したほど、心当たりもなく、驚きの出来事だった。
どれだけ考えても、話したこともさほどない相手から、「仲間外れをなぜ受けるのか」分からなかった。ケンカをした覚えも、意地悪をした覚えもない。その時思ったことは、原因があるなら教えて欲しいということ。
それで、その中心人物の女の子に聞いてみることにした。「私の何が悪いのか、考えても分からないから教えて欲しい」とお願いして。分からなければ直しようもないし、解決もしない。返ってきた言葉は、「そういうところ!!!」だった。叫ぶように言い放った女の子は、涙を浮かべながら走り去っていった。。。
つまり、鈍感で、自分中心で、太々しく感じるのだと理解できた。 後にまわりから、普通は中心人物に聞きに行けないよ、と言われる・笑
私の頭の中は、人や出来事に興味関心があまりなく、毎日をどのように楽しく遊び回るか、そのためだけに動いていた。 今も、永遠の小学生かもしれない。
それでも私は、心からホッとした。
自分では「何もしていない」と思っていても、無意識に意地悪になっていたり、追い込んだりしたのかもしれないと考えたからだ。 「そうじゃないなら良かった」。。。 好きな食べ物や苦手な味もあるように、人に対しても好みがあっていい、と当時の私は自分を納得させた。
とはいえ、気持ちのいい出来事ではなかった。
「嫌な思い」をした時、相手に「嫌な思い」を 無理に やり返す必要はないと思う。どうしたいかも私の自由だ。 怒ったり、泣いたり、悲しかったり、悔しかったりする時ほど、相手にぶつけたり、許さないと憎んだりしたくなるようだが、私はそうじゃない。もちろん感情は湧くが、その感情に自分を乗っ取られて行動するのは望みではない。 それでは私が、自らその感情を選び、握りしめることになる。
私は、気持ちいい澄んだ心のままでいたいのだ。
憎んだりするような感情やそこからくる罪悪感等と長く一緒に居たくない。言葉も表情もブスになるし、未来の自分の時間までそれらに奪われるから。友人に愚痴ってもいいが、それも その波動の中に居続けることになる。私は幸せを感じながら、ただ気持ちよくいたいのだ、できるだけ長く。
私の命の時間も限りがあり、尊い
私の命の時間も限りがあり、尊い。
この考えを幼い頃から教えてくれたのは、病人だらけだった私の育った環境だ。
病人がいるだけで、家の中は不安や心配、後悔などの暗い波動が生まれやすい。幼かった私は、その暗い波動をみなが選んでいるようにさえ感じていた。あまりにも暗い日が多く、学校に行っても帰る時間になると辛くなったからだ。けれど、私は幼さ故に 無邪気さや笑顔がゆるされてもいた。 大人たちは、そのような私を「癒し」にしていたと思う。暗い波動を私の前では出さないように心がけていた。(バレバレなんだけどね)
それは、どんな時も、どの波動で過ごすかを、選べるということだ。
相手や自分を責め続けたり、罪悪感や後悔を握りしめていたり、嫌な感情を残したままにしていると、その波動を自分に留め、現在進行形にする。本来なら今味わえる幸せを、感じられないようにしてしまう。それだけじゃない。その波動が同じような出来事を引き起こす。類は友を呼ぶというように、嫌な波動は 同じような波動の出来事を呼び起こす。
私は、嫌な感情を自分に残さないよう、意識して過ごしている。それは、「こんな嫌な思いを、2度と自分に感じさせない!」と決めることでもある。自分がどうするかさえ決めれば、状況がどうあっても揺るがなくなる。嫌な土俵(波動)に乗ることはないし、今味わえる幸せの方を選ぶし、自然に気持ちいい波動に向かう。
これが、他人と同じ思考で生きなくていいということだし、自分を尊ぶとことでもある。
ハッピーな自分(波動)でいることは選べる
長い間、「共感することが大切」という時代が続いたように思う。だから私のような考えは、否定されることも、変わっていると思われることも、協調性がないと言われることも多かったが、相手がどうだろうと、何を言おうと、友人が離れようと、気持ちよくない波動に同調する必要はない。
そのような波動に引きずられず、巻き込まれず、ハッピーな自分(波動)でいることは選べる。
自分の感じたことこそ、信頼する時代だ。
子ども達にも同じように言う。「自分を信頼して、自由に生きろ!」と。
そもそも命は尊い。尊いということは、みな違って当たり前だということ。それぞれの感じることも、得意なことも、できることもできないことも違うのだ。だから、互いを頼り合い、助け合えばいい。パートナーや家族、友や仲間、それだけじゃなく、気持ちのいい波動(の人)と繋がれば、もっと気持ちよくなるし、心強くもなるし、ものすごく安心する。
人は安心すると、余計なことにエネルギーや気を使う必要がなくなり、自分への信頼も湧き、クリアでいられる。それは、自分の力を最大に発揮できる環境、感覚になるし、自分を存分に生きることにもなる。
喜びに溢れるって、そういうことじゃないかな。
それでも、誰かを妬んだり、羨ましく思ったり、比較して悶々としたり、自信を失うような強い感情や波動にのみこまれてしまうなら、その時は、その波動、その思考、その場所、そのご縁から離れて、自分の尊さに立ち戻る時だと思う。そもそも命は比べられない。
縁を切るとは、気持ちよく感じられないつながり(波動)を切るということ。
気持ちよくない縁を切ると、本来のご縁がつながる