「素敵な息子のつくり方」
そんなコンテンツをつくったらいいよ!
と言われた時、正直驚きました。
そんな見方、感じ方をしてくれる方がいて
コンテンツまで勧めて
世に送ろうとしてくれるなんて、と。
そのときわたしは
自分の中の恐れに気づきました。
そして
恐れの手放し方も同時に知ることができたのでした。
良い方向に導いてくれたこと、くれないこと
わたしは
「夢中になる」「没頭する」ところが人より多く、
その時「いい!」と思ったことには突き進み、邁進してしまう。
夢中だから、まわりなんて見ていない。
だから
「石橋を叩いて渡って!」
「勝手なことばかりしないで」
「そんなことやって意味あるの?」
「お金がもったいない」等と
再三注意されてもきたワケで
後になって
「あの人がこんなことを言っていたよ」
「母親としてどうかと思う」
「みんな同じように思ってるよ」
なんて言われることもしばしば・・・
それらに、すごく凹む自分がいました。
身近な人であればあるほど、
否定は罪悪感につながり、
自分を責める時間は続く。
でも
居心地の悪さやがっかり感、
不安や罪悪感、
自分責めを感じることは
わたしを良い方向に導いてくれたことが経験上なかったので
そんな風に言われることが続くなら
それは
自分が自分にそう言っているんじゃないか?
と、問い
自分ごとにして解決するようになりました。
恐れも愛も循環する。どちらを循環させたいか。
苦しさや怒りを元に
何かの術を身に着けたり、
逆に攻撃したり
正当性で戦ったり
競ったりしても、
一時しのぎであって
誰の幸せにもつながらない。
母方のわたしの祖母は言語障害があり、
叔父は身体障害者で
母は長い間、ふたりを介護していました。
わたしと姉が遊びに行った時は
祖母も叔父もいつも気遣ってくれ、
欲しい物を買ってあげると
買物に連れ出してくれたものです。
昔の時代だったこともあり
祖母と叔父を偏見の目で見られることも
分かるように馬鹿にするような言葉を吐く人もいたりして
知り合いからも、冷たくされることがありました。
わたしは
いちいちそれらの言動に反応し
怒りをあらわにして
言い返しそうと何度もしましたが
それをいちばんに止めたのも、祖母と叔父でした。
人に涙を流すような想いをさせれば、
自分は血の出るような想いをするのだから、と。
あなたがそんなことをすれば
あなたに戻ってくると言うのです。
恐れも愛も循環する。
どちらを循環させたいかを選ぶことができるのも、また自分なのです。
誰かが感じることは、わたしがコントロールできるものではない
「夢中になる」「没頭する」ところが人より多いところ、
その時「いい!」と思ったことには突き進み、邁進してしまうところ、
そんなわたしの部分を「いい!」と言ってくれる人も、いる。
視点や考え方、価値観、人の捉え方は様々です。
それらは
わたし以外の誰かが感じることで
わたしがコントロールできるものではない。
わたしの《喜び》や《幸せ》は
わたし以外の誰かにかかっているんじゃない。
わたしを
「いい!」と言ってくれる人もいるように
自分の反応もひとつだけではなく、
様々な反応をしてもいい!
いろんな気持ちや価値観を選んでいい!
《居心地の悪さ》や《がっかり感》
《不安》、《罪悪感》が湧いてくるのは
自然な感情。
でも、心をどこに向けさせるかは自分で決められる。
心の扉を開ければ《幸せ》のエネルギーを自分に流し込める
「素敵な息子のつくり方」を言われた後に考えました。
何を素敵だと思ってくれたのだろう?と。
楽しく
面白く
子どもたちとは過ごしているけれど
そこなのかな???なんて。
ただ、自信を持って言えるのは
- わたしの心の扉はいつも開いている。決して閉じない。
- 子どもたちがどんな反応であっても、わたしは愛する
- そこから《喜び》や《幸せ》を見出す
これらは子どもたちが生まれてから、
子どもたちから教えられたこと。
どの瞬間にも
純粋な幸せのエネルギーは流れている。
そこから
パートナーシップも同じようにできるはずだと
見直すようにもなったんだよね。
自分の《幸せ》は、
誰かが何かをしてくれることにかかっているのではなく
《幸せ》エネルギーは常に流れているのだから、
自分で流れを引き込んだらいい。
恐れと愛は
同時に感じることはできない。
恐れを手放したい時は、
《喜び》や《幸せ》などの
心地よさを感じる自分に切り替えることが必要だね!