先日、落ち着いたインテリアと安らぎの空気感のあるカフェで、友とまったり過ごしました。
気づいたら8時間も!
相手のお話を心を添えて聞き、本音を適切な言葉で交わしながら、丁寧に過ごす時間はいくつになっても宝物。
そんな時、友って、ほんといいなって思う。
共に過ごすなら、そんな時間を重ねたい。
だけれど人は、自分を尊ぶことを難しく感じていたりするもので、何かが足りないと思い込んでは足すことばかりに時間を注いだり、自信を持ちたいと望むが故に、誰かに認められようと求める言動が増えたり、はたまた何かを画策して、自分の思惑で事を進めようともする。
それを悪いとは思っていないけれど、私はそういうことに心底飽きている。
そのような時間は、これから先も少なくていいと思っている。
人生においての友って、そんなに多くはないのかもしれないね。
できれば、人とは深めていきたいと思っていたけれど、深い時間を紡ぐことができるなら、私は友は少なくても、ひとりでもいたらいいとも 思うようになりました。
思惑があったり、比べたり、争ったり、表面的に繕ったり、自分の立場ばかり考えるような、言いたいことだけを一方的に聞くことになる会話や時間は、私の中の何をも動かさなくなった。
私は【心が動く】ために生きているような質だし、それが楽しくて、そこに興味津々で、それを喜びとして生きてるから、そこに多くの時間を費やしたい。
ただ、楽しいやことや自分が喜ぶことだけを【心が動く】と言っているのではなくて、【心が動く】とは、自分にとってギュッっと心の奥を掴まれちゃうようなこと。悲しみのときだって、不安なときだってもちろんある。
私が「掴まれちゃう」ことは、他人にとっては大したことじゃないことも多いが、自分を生きているのだから、それでいいんだよね。
たとえば、新しい美容品だとか、ケアプロダクトの使用感が、今の私にはとても心地よかった!とか・・・それだけで感動しすぎたり、その喜びが長く続いたりする。漫画も私にとっては同じで、ストーリーに心を掴まれたりね!
日常で言えば、子どもたちが健やかだと すごく嬉しい。
それは病気をしない、とか、そんな短絡的なことでもなく、やっていることが良いことだとか、そんなことでもなく、自分を生きていてくれたら めちゃくちゃ嬉しいのだけど、さんまさんが言うように「生きてるだけで丸儲け」だとも思う。
今朝は、アーモンドミルクを温めて、黒糖ときなこを入れて飲んだのだけど、娘を送り出してから始めるスタートが、そんなほっこり時間であることも喜び。
あとは、パートナーと毎日お風呂で対話するのだけど(遠距離なのでチャットで顔を見ながらね)それも 本音でしかないから、1日の終わりの時間の一部としては、ものすごく私を癒してくれる。
パートナーとの対話は本音だけではなく、いろんなところに優しさが込められてあって、たとえば眼差しとか、私に何かを勧めたい時とかも一生懸命にそのことについて話していたりして、その姿そのものにも、勧めたいことにも愛が湧いてきたりする。そんな心の移りゆく様もまた喜び。
日常には、そのような喜びがあまりにもある。
リアルで会うって、とても大切。
それはコロナ禍になって、すごく言われるようになったことだけど、私にとっては ずーっと大切にしてきたことだから、もし、コロナによって、そのことを大切だと多くの人が思うようになったのなら、きっかけとして地球に必要だったんだとも思います。
私はどんなときでも、自分にも相手にも正直に関わりたいな。
そして、できるなら そうして深め合う友に出逢えたら、嬉しいな。