足だけは めちゃくちゃ早かった。
どうして早くなったのかも、わかる。
小学校時の成績は3段階評価「よい」「ふつう」「もう少し」。
わたしの4年生までの成績はオールもう少し。
何故かもわかる。
毎日毎日、わたしは暗くなるまで遊び呆けてたし
遊ぶこと以外に興味はなかった!
先生に褒められたい、なんて考えたこともなく
成績が良いことがいいことだ、なんて思ったこともなく
友達は好きだったけれど、特定の誰かと仲良くありたいとも考えてなく
好きなものを食べたい、という欲求もなく
洋服にこだわったことも
そこに居ても 授業をまともに聴いたこともなかった。
ただ遊ぶことに夢中で。
足が早かったのは・・・
毎日毎日、遊び呆けていたわたしに
母が言っていたことは「ひとつ」。
お寺の鐘が鳴ったら帰ってきなさい。
お寺の鐘は18時に鳴っていた。
だが、本格的な冬以外はまだ明るい。
暗くては、遊びに支障も出るけれど
明るい間は、途中で遊びを投げ出して帰ることが無責任にすら感じたw
やり遂げたかった。
そして
夢中な時の感覚って、めちゃくちゃ冴えている。
約束を守らず、怒ってずんずん歩いてくる母を遠くでも感じられていた。
点のように小さく見える母を感知した途端、
すべての力を足に使い、母が通るだろう道とは違う経路を風のように走って帰った。
母は戻ると「約束、ちゃんと覚えてたのね!」と頭を撫でてくれた。
その感触も捨て難いもので
走りに拍車をかけていたのだと思う。
(母を騙していたのだけれど。ごめんね。)
だから、足だけは めちゃくちゃ早かったのだ。
その後の5年生からのわたしは
周りが驚くほど成績が上がった。
というかオールよいだった。
何をしたかと言うと、先生の話をただただ純真に聴いてみただけ。
自分のフィルターを通して理解しようとするのではなく
そのままを純真に、だ。
勉強というものの道理は、そういう風になってるのねーと思った。
応用に「遊び」という自分フィルターを使った。
自分なりの効率的な理解のために、それまでの遊びで培った定義を使ったということ。
だから遊びはムダでも何でもなく、すべてのベースだったと知った。
自分の子育ての中でも、それを応用した。
勉強を強いたことも、成績がふるわないことに注目することもなく
習い事に励ませることもなく
興味のあることを追求できる環境だけを何気なく作り、
人としてどうなのか?と思うことだけは怒り狂ったw
怒るときも中途半端じゃないってことね。
わたしは夢中の力、愛の力を信じている。
1人と1人が2人分ではなく
何人分もの力になることがあることも。
そのためにできることはやるが
それ以外には 今でもさほど興味がない。
うちの3人の子たち。
なぜか足だけは早いのよーーー
密かにほくそ笑むわたしがいるのは、言うまでもない。
オトナでも足の早い人を見るとニヤケちゃう。
たまに同じニオイを感じる人がいるからだろう。
そういう人が運命の人なのかもしれない。