わたしが子育てに追われていた9年前、
母は脳梗塞で63歳で亡くなりました。
わたしの生まれきた意味?
それまでのわたしは
結婚して
子どもを3人生んで
マイホームを建て
ママ友とランチし
キャンプにも旅行にも行き
パートナーを支える妻として
それなりに幸せを謳歌していると思っていて
将来は孫達に囲まれながら
粋なお婆ちゃんになっていたらいいなぁ
なんて考えていました。
それがわたしの夢、だとも。
わたしの生まれきた意味って?
自分を生きるとは?
運を自分で変えることはできる?
なんて自分に問いかけることなど、
まして そんなことを考えることも
そんな時間もなかったように思います。
「ひとりの女性」の日記
母はよく
「子ども達(わたしと姉)がお嫁にいったら好きなことをする」
と言ってましたが
実際にはわたしたちが結婚しても
そんなに暮らしは変わることなく、毎日忙しく働いてました。
「年金生活になったらゆっくりしよう」
とも言ってましたが
年金をもらうこともなく。
介護をしていた弟を
「看取ったら安心できる」
とも言っていたけれど
先に逝ったのは
人工透析を20年ほど続けていた叔父ではなく、母でした。
母は晩年、家を建て直し、お墓も建て、
自由な時間も生活に困らないお金も持ち、
仕事でも頼られ、
ご近所さんとも仲良く過ごしていました。
が、
母が倒れてから帰った実家には
誰よりも健康を気にしていたとは思えない量の
空のペットボトルがたくさんあり、驚きました。
几帳面できれい好き
しっかり者の母らしくないな・・・
そう思ったのと
本当はすごく寂しかったんじゃないか・・・
と感じたからです。
電話で話してたときは
気丈で明るい母でしたが
その顔とは違う「ひとりの女性」の日記を
わたしは亡くなってから初めて読むことになりました。
幸せって何だろう?
幸せって何だろう?
母の死をキッカケに
わたしは自分の人生が
母の人生と重なるように思えてきてて
このままじゃイヤ・・・
なんか違う・・・
と
頭じゃなく
心が叫ぶようにもなりました。
母を亡くした当時は
悲しみに打ちひしがれ
それが具体的には何なのか?
考えることもできなかったけれど。
母は老後を心配して
長い間働いていましたが
お金を使うこともなく、
当たり前ですが
お金はあの世にも持っていけるワケでもなく。
人のために動き、
喜んだり、
嬉しそうだったりしていた記憶はあるけども
自分のために
心から楽しそうな顔を見たとは
もう自信をもって言えない・・・とも思いました。
母が生きた時代は
自分のことを優先できる時代でもなかっただろうけれど
健康に気を配っていても
人に良いことをしていても
長生きには さほど関係なく死は訪れ・・・
常識で良しとされている幸せや
素晴らしい人生の条件たちが
もうわたしには
意味を持たなくなり、
母から
「雅美は本当は何を大切にしたいの?」
「雅美はどんな風に生きたいの?」
と
機会を与えられたようにも感じました。
というメッセージを送られたようにも。
亡くなった母の顔は
口角が上っていて、微笑んだ顔でした。
倒れてから病院に運ばれ
意識がなくなった時の顔とは別人。
その顔を見たとき、
長生きではありませんでしたが
やりたかったことは「やりきった」のだと思えました。
そしてわたしはこの時から
わたしの生まれきた意味って?
自分を生きるとは?
運を自分で変えることはできる?
そんなことを
自分で探す時間が始まりました。
いや、自分を生きると決めたから
これまでの道とは違う方向に
歩いていくことになったのだと思います。
「死」があることの意味
母はよく
「人は生きたように死んでいく。
お葬式の時には、
どんな生き方をしてきたのか、来てくださる方が見せてくれる」
と言ってました。
その母のお葬式では
知らなかった母の姿をたくさん見たような気がします。
わたしは「母」としてしか
感じて、見てこなかったことを、少し後悔しました。
もっと料理のことを聞きたかったな、
もっと同じ女性として話したかったな、
もっと甘えたかったな、
もっと仕事の話もしてみたかったな、
もっともっと感謝を伝えたかった
それ以来わたしは
「別れ」はいつ来るのか分からないと思うようになり、
後悔ない人生を歩む、とも決めました。
そして
人に感謝を感じることは、
愛しいこれまでの時間たちと
本当の意味で「別れ」ることができる
=区切りをつけられる
と知りました。
区切りとは、人世の一幕。
わたしには
突然次の幕が始まったように思えましたが
人生という流れの中では
決まっていた次の道だったんだと今なら思えます。
自分を生きる、
そう意識した生き方の始まり。
「死」があることの意味、
それは
いつまでも同じではいられない。
変容し続けることこそ「生」だと
最後に母から教わりました。