母の愛情はひとつの基準で
わたしは思えば
かなり、かなり、かなり!
溺愛されて育った。
過剰な心配も束縛も含めて。
母もひとりの人間で
誰しもが持つ陰の部分でもある
寂しさも満たされなさも
もちろん持っていて
だけど子どものわたしは
「こんな風に愛してほしい」と
愛されたい愛され方を望んでは
それじゃないと嘆いてもきた。
でも大人になって、
子どもをもって、
思うのは
大人も優れていないってことw
完璧や正しさなんてない。
未熟な女が
未熟な子たちを育てる、のではなく
未熟だからこそ
お互いにできないことも多いのだから
育み合ってきたし、今もそう。
なのだが、
ひとつだけ知っているのは
未熟だろうと、亡くなろうと、
母の愛情は
ここ(ハート)にしっかりとあって
なんか適当な扱いを受けてるかも、、、
と思えてしまう時
ひとつの愛情を基準として
「本当に?」が
ずっとわたしに投げかけ続ける。
だから
笑顔を奪うような言葉を聞いたりしたら
わたしの中の「本当に?」が疼いて
胸ぐら掴みたくなるような衝動に
駆られることもある。
(掴んだこともある(^^;; )
そんな瞬間を
人生の中で何度か過ごして思うのは
自分より大切だと思える人と過ごして
理由のない衝動から動く時、
わたしの中の愛の基準はこれなんだ、と
気づくんだよね。
揺るがない価値基準。
良くも悪くも
これらは
うちの子たちにも刷り込まれているだろう。
命の循環は
愛の価値の循環。
深い愛を循環させたいと思うとき、
わたし自身が
愛に取り組み続けるしかないのだな
と
誕生日にふと思った。
とまってるわけにはいかない、なと♡