昨日、厳しいことをあえて言った。
信じることができないと言い続けていたから。
信じるとは
自分の中だけのことだから
信じるって決めたら
それ以外はない。
決断とはそういうこと。
決めて、それ以外を断つ。
肚の底から決めてないから
揺らぐんだ、と。
言葉にして伝えるとき
自分はどうか?といつも問う。
わたしはできているのか?と。
厳しいことを簡単に言えるわけじゃない。
これはわたしの主観で、エゴからきていないか?
相手をコントロールしたいんじゃないのか?
わたしのこだわりじゃないのか?
本人が気づくことを待つ方がいいのか?
相手と相手のこれまでを尊んでいるか?
もし、子ども達だとしても同じことを言うか?
厳しく言うときは
厳しさから伝える方が今はいいのか?とも問う。
その上での
愛からの言葉なのか?とも。
そんなハートとの対話を経て
わたしの中から言葉が生まれる場合は
そのまま伝える。
人は、信じていた人に背かれたときに、苦しむ。
期待して、
相手を信じて、
捨てられたように感じたとき
どん底に落とされたような気持ちになる。
次々に、期待することを信じるのではなく、
そこに主語をつけてほしいとわたしは思う。
わたしは 期待して、
わたしは 相手を信じて、
わたしは 捨てられたように感じた
と。
わたしは 相手への期待を 相手が答えてくれること信じた
のであって
わたしは わたしが決めたことを信じた
のではない。
相手を信じるとわたしが決めたのなら
相手が思っていたことと違うことをしたとしても
たとえ裏切られたように感じても、
それは相手の課題であって
信じた自分を落とす必要はない。
そこで感じたことを学びとして成長できたらいい。
自分で
自分を、
自分のこれまでを、
信じ、尊べば
相手が自分の決めたことを信じる選択をも
尊ぶことができる。
信じるとは
自分の中だけのことだから
期待や相手ではないんだよね。
わたしも修行中だけども。
自分の羽で飛ぶセカイには
自分の羽で飛ぶ人しかいない。
わたしはそう思う。