




日常こそ本番
パソコンが突然壊れたとき
良い意味で
すべてをリセットしようと決めました。
前回の記事
愛のど真ん中をずんずん歩くシリーズ vol.4
パソコンの中にあったすべてを
「もう、なーんにもいらないわ!」
そう思えたのです、不思議と。
でも、残ったものもありました。
それがブログです。
つまり、自分の辿ってきた足跡です。
もっと言うと
ブログは
「子ども達に残したい」と思って書き記してきたもの。
そこが原動力ということは
わたしが本当に大切にしたいことは
「子ども達に残したい」という愛する行為だったです。
自分という命を存分に注ぐ愛する行為そのもの
が
何よりも大切にしたいことだと気づきました。
なので
前回の記事からの問い↓
わたしの本当に望む人生って、何?
この答えも同じです。
自分という命を存分に注ぐ愛する行為そのもの
これを日常で当たり前に行う積み重ねが、わたしの望む人生。
そう、日常こそ本番
そこから見出す愛は?
苦しみも
怒りも
悲しみも
不安も
許せない気持ちも無価値感も
自分じゃない誰かや
世の中から向けられたものとして
回避することも
誰かのせいにすることも
スルーすることもできます。
でも
限りある時間の
唯一無二のわたしという命の可能性を
わたし自身が素直に求めるなら
そのような感情が生まれるときの「愛」は、なんだろうか?
と問い、
あきらめずに愛を見出して、実行することだと思いました。
これまで「無価値感」を感じてきたのは
わたし自身が可能性をあきらめてしまったからだと、納得しました。
それからのわたしは
何が起きても常に
「そこから見出す愛は?」と
自分への可能性を誰よりも信頼して問いかけています。
たとえ
腹が立ったり
納得できなかったり
悲しみで動けなかったとしても
その感情が生まれたということこそ
そこに「愛」が眠っているという証拠。
「愛」がなければ、感情すら生まれないのです。
まずは
腹が立ったり
納得できなかったり
悲しみで動けないという状態を尊重し、自分を責めない。
その感情を避けたり
違うことに自分を向かわせたり
忘れようとして、なかったことにすることもせず。
その感情も
自分という尊い命から生まれたものとして、味わい尽くします。
そこまで自分に訴えてくる感情の奥には
そもそも自分が、とても大切にしていることや本当はどうしたかったのか、が潜んであるから。
潜んであるものを見つけ出し
「どのように実行しようか!」と自分を愛する行動をしたいのです、わたしは。
やはり、そちらに何よりワクワクするのです!!!
母の死をきっかけに
母の死をきっかけに
わたしは自分の中の深い深い心の奥の旅に出ることになりました。
体を壊すことで
体からの声も聞けるようになりましたし
子ども達に伝えたい思いなども明確になってきました。
母を亡くしたときは
悲しみや喪失感、体の不調などで時間が止まり
心は無価値感でいっぱいになり
いろんなところに答えを探しに行きましたが
そのような苦しいときこそ
自分の中に答えがあり
本当に望んでいたことを見出す=自分を愛すること、尊ぶことを教えてもらいました。
逆に、苦しいままフタをしたり
外側や誰かに答えを求めて動くほどに
いつまでもその苦しみは、わたし達を過去に生きるように仕向けるのだと。
過去の苦しみという「傷」を、今を生きる「絆」にしないこと。
この深い深い心の奥の旅は
母が最後にくれた、わたしへの愛だと感じています。
死という悲しみの出来事からでさえ、
感謝を感じることができたという経験が
苦しみの中に眠る愛を見出すという行為を教えてくれたのです。
つづく。

愛を探し出すことは、こちら↓でじっくりとお伝えします。
