朝の風が心地よい季節。
一度お布団を出てから、窓を開け
そよ風の中 またお布団に戻って
うつらうつらする時間が好き。
お隣さんは小さな子どもが3人いて
いつも朝から賑やか。
その声に起こしてもらうのは、悪くない。
昔のうちのようで、微笑ましい。
次男坊の高校は土曜日も登校日。
彼はいつも通り起きてきて
自分でパンを焼き、コーヒーを淹れる。
その音をお布団の中で聴いている。
子ども達が小学生になってから
わたしは
「週末はママもお休みです」と言っていた。
夜は「9時でママは終了です」だった。
賑やかすぎで、三者三様な彼等に
いつまでも付き合うと、止まらないw
元気で心底可愛いのだが
パートナーとの時間も
至福のバスタイムもわたしは確保したかった。
その流れから、次男坊は土曜日の朝に
わたしがいつも通り起きることを許さないw
「お母さんはゆっくりしてて」と言う。
目は覚めてるのだが、
彼の優しさ溢れるこの時間を
わたしはご褒美だと思ってお布団の中で味わう。
用意も済ませて出る時に
「行ってくるね」と伝えに来る。
それがわたしの土曜日のスタートの合図。
お隣さんの賑やかな声を聞く朝、
バタバタしている母さんの音や声と
それらをフォローしているお父さんの声を聞いて思う。
与えた愛は忘れられることなく
自然と
自分に必要なカタチで戻ってくる。
元パートナーと離れる決意をした時、
それがいちばん自然な流れだと思った。
ある時、元パートナーのSNSの投稿が
上がってきて、偶然目にした。
仲間ととても楽しそうに笑っている写真だった。
「こんな顔、まだしてるんだ、良かった」と心から思った。
それをふとある人に話したら
「わたしの前でもこの顔をして欲しい、と思わなかった?」と聞かれ、
よかった。と心から思ったけど
わたしの前でも、、、はなかった。
ただ ただ よかったー!が湧いてきた。
と話したら
「それ、男女としては終わってる」
と言われた。
そうだな、とすぐさま思った。
まるで子どもの成長を慈しむ母の言葉じゃないか!と。
これが、わたしと元パートナーとで
20年近く作ってきた流れなのだなと知った。
平穏ではあるから、このまま波風立てずに過ごしてもいいんじゃないか?
とも考えたが、
「どうなりたかったか」を思うと、それは違う。
元パートナーの「どうなりたい」を
聞いた時も、
そこにわたしがいないことが明確だった。
お互いに「チーン」である。
そして、互いに客観視できた瞬間でもあり
共有したことでもあった。
改めて「こうなりたい」という意識を持つと、
それに必要なことは引き寄せて起こる。
その後、わたしには
環境や感情の変化が訪れた。
「本当にこれでいいのか?」と言う不安。
周りからの強い反対。
自分を責める罪悪感。
夫婦とは思えないぎこちなさ。
家に流れる妙な空気。
「こうなりたい」と望んだから起こったことで
その気持ちさえ押さえれば
引き戻すこともできたかもしれない。
でも、長い間の自分の思考癖や諦め感にも気づき
それらを持って生きることの方が
わたしには苦しいことも知る。
ここで、狭い世界の常識の枠を超えれば
「こうなりたい」は実現する。
その光のみを追った。
こうした流れも自然なのだ。
一見、苦しいように感じるかもしれないが
わたしと元パートナーは
ひとつの自分の枠を超えるという
可能性の方を見出したと思う。
それらを身近に見てきた子ども達の「今」に答えもある。
自慢のようだが、
素直で優しい、ユニークな子たちだと思っている。
与えた愛は忘れられることなく
自然と
自分に必要なカタチで戻ってくる。
ただそれだけなのだと思う。
さて、
本日はtalk session。
カウンセリングをやめて
talk sessionに変えたのも
わたしの自然な流れ。
人の本音って
何気ない会話や、安心な場、楽しい時に
出やすいもの。
気のおけない仲なんかもそうで。
わたしはその一見当たり前のような
本当は必要で、宝物のような「とき」を
共有していこうと思っている。
たった1人の参加でも
多くの参加でも、変わりなく。
その時間の「質」を大切にする。
子ども達や元パートナーがくれた
優しさ溢れるこの時間を
ご褒美だと思って味わうように
自然の流れに答えを見出していきたい。