妬みと快感のセット

うちはよその家とは違うんだ、と
自覚したのは
小学3年生だったと思う。

なんせ病人が多かった。

母は連日、
誰かの付き添いで病院に行っていたから

母には迷惑をかけちゃいけないと
子どもながらに思ったものだ。

祖父母が同時に倒れた時は
姉とわたしは離れて別々に
親戚に預けられていた。

そして病気も様々だった。
先天性から、精神性、不精まで。

各臓器を
誰かひとりは患っていたようなもの。

こればかりは
誰に言っても仕方ないと思っていた。

なぜ、うちだけ?
と考えて
どうにかなるものではない。

悲観でもなく。

その
「どうしようもないけれど人と違う」
という感覚は
「みんな人と違う」という
人を妬まない性格に育ててくれた。

言いたいことや
思ったことは言う性格だが
妬んでいるから言うのではない。

「マジで?本当に?それでいいの?」

本気で尋ねている。

妬む時間があるくらいなら
少しでも「安らぐ」時間に、と思うほど
わたしは子どもの時に
緊張した時間も多く過ごしてきた。

だから人一倍
妬みなどのエネルギーに敏感だと思うし

それらを感じることがあれば
とりあえず聞いて、
それでも変わらない場合は
フェードアウトしていると思う。

争いたいのではない、から。
同じ土俵には乗らない。

分かち合えたら嬉しいとやっぱり思う。

そこそこ頭が良かったり、
気配りができたり、
親の期待に応えてきた、

頑張ればもっと稼げる、
努力したらモテる、
大人として無邪気ではいれない、
しっかりやる、、、

そんなエネルギーを優先してしまう人や
それができる人たちは
時にしんどいだろうなと思う。

争う土俵に入っていきやすいし、
結果、成果にコミットすることを求められてもきただろうから。

そこに達成感を感じるようになっただろうし。。。。。

自分の人生を豊かにするために
「大切にしてきたものから手放す」という
変容に入るのは自然なんだけど

捨てれない《達成感》に重きがあるほどに
人生の時間はそちらに奪われていきやすい。

「どうしようもないけれど人と違う」
とは
妬んだり、拗ねたり、争ったりする思考に
時間を奪われないで済んだ。

まぁ、
それができたら簡単だけど、、、ね。

というわたしも
アルコール依存で大変だった父が
(もうとっくに亡くなっているのに)
夢に出てきた時なんかは

夢の中で怒りが止められず、
起きてもその激怒が抑えられなくて

怒りがまだ自分の中にあることを痛感して

争い、戦う自分の感情を育てない

エネルギーと時間を費やしてきたひとり。

約20年も。

寄り添わない人にほど、寄り添ったり、
損得で近寄ってきた人と一緒にいたり、、、

自分をゆるせない間は
結局自分を争わせるところに、身を置くことと同じ。

もっと適切な言い方をすると
その怒りの感情を
意図してコントロールできる自分に
快感を覚えない。

自己啓発に感化される多くの人たちは
思考を意図する快感に飲まれているように
感じることがある。

(無意識だと思うし、
その度に自分も同じじゃないか?と
自問自答することを忘れない。)

それは
お金やセックスに溺れ、飲まれる

なんら変わりないとも思っている。

仕事に精力的な場合も
自分をコントロールする快感に
飲まれていることは、、、
よくあるんじゃないかとw

怒りや渇きからじゃなく
自分の心からの声をカタチにしたいね。

だからなんだなー。
パートナーシップを育もうって伝えているのは。

渇きを満たすのは、潤いにはならないから。

りんごろ

読んでくれてありがとう。

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