見えるものではないから、信頼しよう。

わたしは、母の死をキッカケに
カラダを壊し、精神的に不安定になった時期があったが

逆に言えば、
それほどわたしにとって
母という存在が大きかったということ。

本当に大切な拠り所を失くしたと感じたとき
人はここまで自分を見失っていくんだな
、とも感じた。

でも

その経験をしたから
わたしはもう大丈夫だと、心から言い切れるようにもなった

今、死んでもいいとは全く思わないが
その時が来たら
母や、わたしを愛してくれた人たちが迎えにきてくれると思える。

そう言えるということは
わたしは今生で、
変わらぬ愛と絆を手に入れているんだね。


愛や絆はいろんなカタチがあると思う。
親子じゃなくても、パートナー、友、仲間等とも。

それらを感じたこともだけど
それを失くすこと(というか別れね)も経験し、
どちらも味わうことができたのも、愛が成せることだと知った。


その後、わたしは
大切な人で先に旅立った人たちを 何人も見送っている。

目の前で感じることも、
触れることも、
会うこともできなくなる悲しみ
は感じたけれど

心は
痛くなく
寂しくなく
寒くないのは

そこに愛と絆があると、心の根っこで分かっているから。

つながっているんだよね、
魂は。


最近ね

「人を本気で好きになったことがないのかもしれない」
「一生のうち、誰かを本気で愛してみたい」

と、何人もから聞いたんだ。


それは

今生で、変わらぬ愛と絆を実感したいんだな、と思っている。
パートナーとね。

本音で、素直に望むなら
必ず出逢うよ、起こるよ。


そうなれないだろう、という
不安の行き来をやめたらいいよね

不安の行き来とは

愛や絆はあっても
常識正しさ執着、心配、嫉妬等も持ち合わせてしまうこと。


不安の行き来は、また学びの道に戻される。


わたしは母が大好きだったけれど
大人なんだから、甘えてばかりではいけない、
心配をさせないように

自分に常識を強いて
本音でいることより、良い娘であろうとした。

そのまま別れがくることも知らずに。。。

だから
とてもとても後悔した。

ダメダメな娘だと思われようと、
そのままの自分で接したかったな。
(それも母はお見通しだろうけどね)


時間は戻せない。

それも経験したから
わたしは正しいことより、常識より、いい人になることより、

本音を選べばいいと思う。

本音を抑え続けると
体が悲鳴をあげることも 起こり得る。

何かをやろうとするとき
どちらが良いのか?も結果も、始めはわからない。

でも「なんとなく違う」、「こっちだな」の本音の感覚は感じられる。

その本音を選んで、自分の感覚を信頼することが
やがて変わらぬ愛と絆になる。

愛も絆も
本音も感覚も
見えるものではないから、

自分の感じることを信頼しよう。

自分だから感じられる。

りんごろ

読んでくれてありがとう。

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